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ニレの木

.07 2010 シニア日記 comment(2) trackback(0)
今朝、テレビでチラと見た「にっぽん巡礼」というNHKのテレビ番組。

ニレの木-1

アレ、見た事があると思ってネットで番組内容を調べたら下記のように紹介されていた。

”羽田空港の敷地には戦前、3つの町があった。終戦直後の昭和20年9月21日、GHQは住民に対して、48時間以内の退去を命令。羽田鈴木町に住んでいた村石さんは庭にあったニレの木を引き抜いて、多摩川の河原沿いに植えた。住んでいた証を残したい・・・。あの日から64年経った今、大木に成長したニレの木を前に村石さんは何を思うのか。”


ニレの木-2

「私は大正2年に羽田鈴木町(現在の羽田空港内)に生まれ、海苔づくりをして暮らしていました。終戦の年、昭和20年9月21日、進駐軍に48時間の強制退去を通告され、生まれ育った町を出なければならなくなりました。そのとき、家の前の河原に1本のニレの木を植えました。」村石鈴之助さん (東京都 97歳)

ニレの木-3


この村石さんと言う方は、一昨年の暮れに96才で亡くなった父の小学校の同級生で、以前にもNHKの「新日本紀行ふたたび」という番組で取り上げられたことがある。
この番組をたまたま見た父が感想文を書いて、ボクにワープロ入力を頼んだことがあった。

(父の感想文)
 NHKの「新日本紀行ふたたび」という番組の一つ、「羽田暮し・夏」という紀行ドキュメントが平成十七年九月上旬放映された。昭和二十年の夏の終り、羽田鈴木町、同穴守町に住む人たち彼是(かれこれ)二千数百人が、四、五日しか猶予を与えられず、島を追い出されたその後の六十年を回想した記録である。何人か生き残りの人に焦点を当てていたが、その中の一人、九十三才になるというM・S君が、たまたま、私の同級生で、名前も顔にも覚えがあって、深い感慨に包まれた。
 M・S君の住居は鈴木町にあって、当時、羽田本町も、鈴木町・穴守町もほとんど灰になっていたが、六郷川(多摩川の最下流)の川沿いにあった十軒足らずだけが焼残っていたのだそうだ。M・S君は立退きの際、堤防の川際(かわぎわ)に一本のニレの木の苗を植えて置いたという。それが六十年後のいま、五米近い喬木(きょうぼく)となり美事に葉を茂らせている。
 「こんなに立派になったよ」と、M・S君は、空港の多摩川寄りの一角に立つ樹の幹を懐かしそうに撫でるのだった。
 追い出されても遠くへは行かず、羽田本町に移って、海の生活(くらし)をつづけるのは、鈴木町漁師町の人たちだ。彼らは代々、海の幸を追いつづけ、海がある限りそこから離れようとしない。東京湾の海苔の養殖を初め、豊富な魚、貝類相手の生き方に慣れ、他の生き方を知らないのだ。空港がはるか沖合まで拡張し、海苔養殖の干潟も魚介類の宝庫も大型旅客機の滑走路となってしまったいま、残る僅かな川と海の中に、昔の生活(くらし)をつづけようとする彼らに私は畏敬に近いものを感じる。むろん、倅や孫は、羽田本町に住んでも仕事は都内のどこかに求めているが、老境に入った立退き体験の当人は、あくまで海との暮しを追いつづけているのだ!


しばらくして、父が当の村石さんに会いたいから連れて行ってくれと言った。
父を車で村石さんの家を訪問したのはその年の11月に入ってからだった。羽田空港にほど近い込み入った狭い路地の奥に目指す村石さんの住んでいる家を発見した時はホッとした。父と村石さんは、どこそこに住んでいた同級生はその後どうしただの、今も近くに住んでいるものもいるだの、しばらく消息話をしてから、テレビで話題になったニレの木を見に行こうということになった。広大な羽田空港の敷地内で、河原沿いにポツンと立っているニレの木は、なんの変哲もなく、いわれを説明されなければ誰も目を留めないだろうと思われた。しかし、村石さんにとっては自分の生まれ育った土地にしっかりと根を張って、こんなに大きく育ち、自分の死後も生き続けるだろうこの木には、万感の思いがこもっているのだろう。目を細めて愛おしげに眺めていた村石さんが印象に残っている。

村石さん達の住んでいた鈴木町が強制退去になったのは昭和20年9月だが、羽田穴守町にあった父の生家は空襲下の昭和20年4月強制疎開で取り壊されてしまった。米軍機の焼夷弾攻撃による類焼を防ぐための家並を強制的に取り壊して道路を広げるためである。

中国満州の張家口から一時帰国で生家に立ち寄った父が、ちょうどその取り壊しに遭遇し、その時の様子を書き残している。


メガホンを持った男の合図で男たちは掛け声を掛け始め、数本の引綱がぴいんと緊張した。緩めては引き、引いては緩め、数十回繰返すと二階の屋根がゆらぎ始めた。一階二階の隅々まで知りつくした母屋がいま、まさに引き倒されようとしているのだ。
 「危ないぞ!」と声が挙がった。二階の屋根が裏庭の方にのめり出し、次の一引きで崩れ落ちて土煙が濛々と立った。どんな音を立てたかは覚えていない。あまり大きな音だったので、耳を撲りつけられたような衝撃で音響とは感じなかったのかも知れない。
 埃の中に呆然と立ちつくしている私に、メガホンの男が近づいて、何かを指さしながら一言(こと)二言(こと)か言ったが、その声も聞こえなかった。ただ、男の指さした方向に立っている立札がわかった。丸太に打ちつけた板切れに墨で書いた兄の立退き先を私は手帳に書き写した。
「横浜市鶴見区北寺尾」
番地まで書き止め、最後の足掻きで身震いを続ける母屋を、しっかりと眼の奥に見納めて、故郷の廃墟を後にした。向う三軒両隣が疎開を免れていることに無性に腹立たしさを覚えながら・・・・・・・。
(後略)


こうして、故郷を失った父は「故郷喪失」という一章を自叙伝に書き記している。

相子
切ない戦争体験を拝見いたしました。庶民はすべもなく時勢に振り回されて仕舞うのですね。
お父様と同じ頃、私の父も張家口に会社から派遣されておりました。
2010.03.07 16:58
ココパパ
前線の兵士たちの想像を絶する苦難を、NHKの別の番組「証言記録 兵士たちの戦争」で見ると、戦争の悲惨さは家や故郷を失うくらいならまだましだったようですね。
日本が憲法で戦争放棄を宣言し、平和を追求するのなら、このような戦争の悲惨さを実感させるテレビ番組の外国語版を作って世界に発信すべきでしょうね。そういうことを手掛けるNPOが日本にあればと思います。
2010.03.07 22:14

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